(0:18) 今日はMさんとzさんが来る日。
来るのは11時の予定。
子供がマクドナルドに行きたがっていたので、朝のうちに行っておくことにした。
マクドナルドに行って無の時間を過ごして、それからアピタのボールプールに行って無の時間を過ごした。
(この「無の」というのは冗長ではないか)
(しかし、有の時間も——人生全体の中で占める割合を考えると無視できるほどだとはいえ——ないわけではない)
(だが、こういう場合はやはり無標の「時間」は「無の時間」として扱い、有の時間には「有の」とつけるのが常套手段じゃないだろうか)
(どうでもいい)
Mさんたちはマンションの入り口を探すのに手間取ったらしく、少し遅れた。
普段からEにMさんたちのことを話すときもハンドルで言及しているため、そのままハンドルで紹介した。
子供は特に人見知りをすることはなかった。
(人見知りが強かった時期もあったが、今はそうでもない)
図鑑の決まった写真(遊覧船、コンテナ船、客船、水陸両用バス)を指差して大人に答えさせるというのを何回もやっていた。
(パターン化された行動)
昼はピザ。
おいしかった。
(おいしくないピザはあるのか)
(あることはある)
(無標の「ピザ」は… 以下略)
午後はずっと適当に(?)時間を過ごした。
子供がゲームを見たがるのでF-ZEROをやったり、スイッチのゼルダをやったり。
ゼルダをやると、自分の思い通りの行動を取らないと子供が叫ぶのでとてもやりにくい。
子供はとにかくほこらに入らせようとする。
クリアしたことのあるほこらに入ってばかりいてもしょうがないので新しいほこらを探しに行ったが、その過程でもちょっと気に入らない方向に行こうとするとすぐに叫ぶ。
ゼルダをやめると、子供は人が多くてテンションが上がっているのか、やたらとあたりを跳ね回る。
元気なのはうらやましい。
ぼくが子供のころはこんなに元気だったかな…?
(そうじゃなかった気がする)
(ということは、ぼくと子供は多少違うところがあるということになる)
(ぼくと子供の違うところは珍しい)
(と思うぐらい、ぼくと子供は似ている)
(ところで、「子供」という呼び方はどうなんだろう)
(もちろん、リアルでは名前で呼んでいるけど)
(日記で言及する際の話)
(まあ、このままでいいか)
(ちゃんと推敲された文であればこのプロセスは無駄なので削るところ)
(この文は推敲しないで書いている)
途中から、子供は「お姉さん(Mさん)」「お兄さん(zさん)」「お父さん」「お母さん」「T(自分の名前)(結局必要に迫られて子供の頭文字を出す羽目になった)」と呼ぶというパターンを始めた。
そのパターンの中で、呼ばれた人は「はい」と言わないといけない。
(「うん」とか返すと「はい、は?」と言ってくる)
最後に「T」と自分の名前を言った後はそのまま黙っていて、大人が「はい、は?」と言うと「はい」と答える。
それを含めてパターン。
遊びというよりも、その手順にこだわっているという感じだ。
うちの子(時々これも使う)(わざわざ言う必要なし)(はい)はこんな感じなので、大人は付き合ってあげられるけど、ほかの子からしたら意味不明なので、一緒に遊ぶということがなかなかできない。
今は幼稚園だからまだいいけど、小学校に入ってやっていけるか心配だ。
晩ご飯はスシローの寿司。
EがFAXで注文して、ぼくが原付で取りに行った。
寿司だった。
(寿司はおいしかった、という意味)
(寿司はおいしいのがデフォルトなので)
(こんな解説を加えるならデフォルト設定の意味がないのでは?)
ぼくが子供とお風呂に入る8時ごろにMさんたちは帰った。
Mさんたちが来てくれてよかった。
またこういう機会があったらいいな。
しかし、疲れた。
これはMさんたちの存在によってという意味ではなく(当然)、テンションの高い子供の相手をし続けないといけないということが大きい。
(この前Eが昼中バイトでぼくが一人で子供の相手をしたときは、子供のテンションはそんなに高くなかったので放置気味でよかった)
あと、Mさんとzさんという自閉寄り仲間なので気を使わなくていいかというと、そこはEもいるので(途中ちょっと外出もしたけど)、基本的には場の性質は「社会」だ。
あと、Eさえいなければ社会度がゼロになるかというとそうでもなく、例えば下着姿でゴロゴロするといったことはできない。
(今から考えたら、着る毛布を着とけばよかった)
今度お呼びするときはもっと楽に過ごせるように考えよう。
夜はドイツ語の勉強はお休みして、ゼルダだけやった。
(まあ、ゼルダのUIはドイツ語なのだが)
(UIは同じ文面が繰り返し出てくるので、ある程度やるとあまり勉強にならなくなる)
ヒノックスを3匹倒すやつをやった。
まあ、疲れたけれど、全体としては有な一日だった。