02/02

(0:59) 引き続き「自閉症の謎を解き明かす」を読んでいる。

(表記がクソすぎて訳者を殺したい)

 

その中で、興味深い例があった。

この絵を見て、すぐに状況が読み取れる人間がいるという話。

画像 : #800 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 絵画作品集 - NAVER まとめ

(もちろん本の中では、「自閉症者はこの絵を見ても状況がわからない」という文脈で紹介されていたのだが)

 

ぼくは見ても全然わからず、解説を読んでやっとわかった。

本当に人間はわかるのか? と思ってツイッターで聞いてみると、やはり健常っぽい人はわかるようだ。

やれやれ。

いや、ぼくだって正解を言われたらすぐにわかるのだが、まずそこ(左端の男の背後)に視線をやるという発想にならなかった。

 

どうもぼくは、自分がアスペとか自閉症とか口で言ったり文字に書いたりはしていても、いまいち「自分と人間の違い」を心から理解していないところがある。

本で「健常者(正常発達者)」とされる人間は、本当に実在しているのか? というところ。

自分以外のあり方に対する実感がない。

 

この絵の例でわかるように、やはり「健常者」というものは実在して(それどころか人類の99%ぐらいを占めていて)、彼らはぼくとはだいぶ違った感受性を持っているらしいのだ。

 

そういえば、ぼくは映画(特に実写)をほとんど見ることができない。

セリフのないシーン(人物が動いたり視線を動かしたりしている場面)では得られる情報がゼロだから退屈して見ていられないというのがその理由。

 

で、これまでは無意識的に「ほかの人は情報量ゼロの場面でも退屈せずに見ていることができる」というふうに考えていたのだが、真面目に考えると、ほかの人は言語がなくても情報を得ているという、驚くべき、しかし自閉症の本などに書かれている通り(健常者はできて自閉症者はできない)という仮説のほうがずっともっともらしい。

 

どうやら、ぼくは40年間生きてきて、その20年ぐらいはアスペルガーとか自閉症のことも知りながら生きてきたのに、健常者という存在を心の中でまったく信じていなかったようだ。

 

 

これまで、自分がアスペルガーであるというほうに着目して本を読んだりしてきたけど、今後は周囲が健常者であるというほうに着目して考えてみることにしよう。

それにしても、40歳にもなって最近やっとわかるようになったことが多い…。

うちの子供にはもうちょっと楽をさせてやりたい。

 

さて、今日の日替わり日記は「感謝する」なんだけど…。

本を読んでいると、どうも健常者は「ありがた感」のようなものを持っているらしい。

それは(たぶん)何かいい感情で、それを呼び起こすことによって何かポジティブな感じになるのだろう。

(よくわからないのでいい加減)

ぼくにとっては感謝の気持ちというのは、感謝するべき状況を判定してふさわしい発話をするということにすぎない。

 

で、この日替わり日記というのは「その科学が成功を決める」に載っていたやつなんだけど、これはそもそも人間向きなんじゃないだろうか?

(当たり前だ)

自閉症者は想定されていない)

 

少なくとも、この「感謝する」というのは、ぼく自身にはあまり好影響がない。

(それがきっかけで R と話したりはしたけど)

(R はこの日記を読んでくれているらしい)

(ありがたいことだ)

(この「ありがたいことだ」というのも状況によるもの)

(しかし、それはネイティブありがた感と何が違うのだろう)

(こういうのはちゃんと計測しないとわからないのでは)

(というわけで、自閉症がちゃんと計測可能になるのを待つという、いつもの話に)

 

というわけで、「感謝する」のテーマも不要なので捨てよう。

ほかのテーマについても、有用性を適宜検討しながら取捨していく予定。

「その科学が成功を決める:アスペルガー版」みたいなものを出してほしい。