(0:53) 「自閉症の謎を解き明かす」を読んだ。
ぼくにとっては、「人間の謎を解き明かす」というタイトルの本を読んでいるようなものだった。
ツイッターでも書いたけど、次のような節があった。
人と話をするとき、相手は何を考え、何を知り、何を信じるのかを意識的に計算して答えを出さねばならない状態を想像してみてください!
これは、想定読者である健常者に向けて書いたものだろう。
ということは、健常者にとっては、「人と話をするとき、相手は何を考え、何を知り、何を信じるのかを意識的に計算して答えを出さねばならない状態」というのは想像しにくいものだということだ。
ぼくにとって、それらのことは無意識で行っていることではない。
だから、職場で雑談をしていると思考回路を使うので疲れてしまう。
(幸い、今の職場では雑談はない)
まあ、考えてみると「雑談」という行為の存在自体、人間がいかにそれにエネルギーを使っていないかを象徴しているな。
人間みんなが雑談で疲れ果てるという特性を持っていたら、雑談をするという習慣自体が消えているはずのところだ。
(ちょっと考えればわかるところだが、これまでそういう方向で考えたことはなかった)
考えてみると(「考えてみると」が多い)、ぼくは前から「自分は雑談をすることによって疲れやすいタイプだ」という認識を持っていたのに、その逆の「ほかの人の中には雑談をすることによって疲れないタイプもいる」ということをあまりちゃんと考えたことはなかった。
まあ、自閉症者は他人のことをあまり考えないというし、ぼくもそうなのだろうか。
この「人の(自分のありよう以外の)ほかのありよう」というものは、ちゃんと考えると驚きが大きい。
それは、人間が自閉症者のありようを知った場合と同じようなものだと思う。
しかし、大きな非対称性として、人間はあまり自閉症者に触れないで育つ一方、自閉症者は人間に囲まれて育つということがある。
普通に考えると、自閉症者は人間に相当詳しくなっていてもいいはずのところだ。
ぼくも、人間に対するいろいろな表面的な理解はしていた。
道徳という概念があるということ、権威に弱いということ、場の雰囲気に流されやすいということ、など。
しかし、それは主にふるまいに関する理解だった。
ぼくの立場から見ると、自分以外のオブジェクトに関してふるまい以外のことを知ろうとするのは、情報隠蔽の原則に反しているようにも思える。
(自分以外のオブジェクトについて、ふるまい以外の何がわかるというんだ?)
しかし、人間はお互いの実装に自由にアクセスしている(もしくはアクセスできている気分になっている)という面があるようだ。
そういうわけで、数日前からはぼくも人間の実装について考えてみるということを始めている。
今日プールで考えたのは、プールの監視員について。
考えてみると、プールの監視員というのは数人のセットから一名がその日の担当になっているという仕組みのはずで(全日本人からランダムに選ばれているというわけではない)(当たり前)、半年間通っていたら、それぞれの担当を何十回と見ているはずだということだ。
しかし、今日監視員の顔を見てみても、それがこれまで見たことのある顔かどうかはまったくわからなかった。
これも、人間なら(人間の顔を見た瞬間にいろいろ情報が入ってきて、それによって顔を覚えやすくなっているので)覚えているところじゃないか?
まあ、実際のところはわからない。
他者の実装がどうなっているかは、究極的にはわからないのだ…。
(研究は進んでいると思うけど)
(575)
今度、子供を発達の相談に連れて行くことにした。
この前の1歳7か月健診のときに担当の人と話したとおり。
また有給を取る予定。
しかし、E は行きたくないという。
その必要はないと。
E にとっては、自閉症というのは可能性を考えるのもおぞましいことなんじゃないだろうか。
(やはりぼくの存在全否定)
(人間なら相当傷つくところじゃないだろうか)
(エミュレーション)
まあ、ぼく一人では泣きやませられないから一緒に行ってほしいところ。
今日の日替わりテーマは「幸せな時間を思い出す」か。
うーん。
昨日、それぞれのテーマに関して精査して取捨するというようなことを書いたけど、よく考えてみると、少しは有用だったテーマについてもすでに有用さを失っているということは明らかだ。
まあ、金曜日の「うまくいったことを思い出す」は残してもいいかな?
それ以外は全部捨てよう。
というわけで、一週間の終わりにその週にあったことを思い出すという、ごく当たり前のプラクティスが残るだけになってしまった。
まあいいか。