(23:17) 今日は早めに日記を書く。
昨日の記事(一つ目)がそこそこブクマついてよかった。
それにしても、あの記事の書き方で文脈を読み取れない人がいるようでびっくりした。
補足をつけたけど、それでもわからない人はわからないんだろうな。
そういえば、ぼくはアスペ日記という名前の日記を書いていながら、ネット上では複雑なコミュニケーション形態を使いこなしているな。
ブログ記事での仕事の愚痴の書き方(「の」の連続)とか、エアリプの読み取りとか。
このエアリプという文化は本当に面白い。
不確定な状態が続くからだ。
A が(そうとわからない形で)B について何かを言ったように B に見えたら、B は(そうとわからない形で)A に何かを言い返す。
ここで、A が実際には B に言及していなければ、B は自意識過剰ということになるけど、B もそうとわからない形で A に言及しているので、それが確定することはない。
この不確定さがいい。
もっとも、最初にエアリプをするほうがあまりにも直接的にするのはよくない。
それは攻撃で、ブロックされても文句は言えない。
(そういえば、最近そういうブロックをしたけど、それについてもそのうち書こうかな)
誰かが自分にエアリプをしたと認識したときに、それよりずっとわかりやすい方法で、かつ確定的にならないように、それに対して反応するのがいい。
(何となく徒然草とか枕草子っぽいな。将来エアリプ文化について書かれるときの題材になったりしないだろうか)
(するならもっとメジャーなところから題材を取るだろう)
(どうでもいい)
それにしても、自分よりずっとできる人がどういう思考をしているかというのは気になるものだ。
この業界にいると、実にいやらしいけれど、人間を格上・格下に見てしまう。
格上の人はどんな小企業にいたり無職だったりしても格上で、格下の人はどんな世界的大企業にいても格下だ(後者はあまりないけど)。
その格でいうと、ブログにも書いたように、自分は中間レベルだ。
平均の○倍という数字は適当だけど、自分に簡単にできることがどうやってもできない人をリアルではよく見るし、自分にはどうやってもできないことを簡単にできる人をネットではよく見る。
そういえば、前にツイッターでこういうことを書いたことがあった。
観測範囲内のすごいエンジニア、1. すごいエンジニア圏内でコミュニケーション取っててあまり外部を相手にしない 2. SNSをあまりやらない 3. 気軽に冗談言ったり普通に面白ツイートしたりする 4. 自分のすごさをミサワ的にアピールする で、4が一人しかいないから気になってる。
— Манабэ@ищу работу (@takeda25) 2013, 12月 14
今日は久しぶりに 4 の人(個人)を観測した。
でも、考えてみると 1 の人はぼくはほとんどフォローしていないから観測できていないだけで、4 は 1 のサブグループなのかもしれない。
1(4)の人は、自分の実力を「努力の結果」だと思っているように見える。
確かに、努力の結果というのは事実なんだろう。
しかし、努力というのは誰でもしているものじゃないだろうか。
ぼくだって、ぼくなりの努力はしてきた。
学生時代にコンピュータで遊んだのも、努力といえば努力だろう。
もちろん、全然向いていない方向の努力で全然ものにならなかったものもある。(そういえば編み物をしようとしたことがあったっけ)
その結果、今の自分があるのであって、それ以上にもそれ以下にもなりようはなかったんじゃないだろうか。
「努力したおかげで(他人より優れた)今の自分がある」というのは、「努力していない」人間の存在を仮定するように、ぼくには思える。
でも、そんな人間、いやそんな生き物はいるんだろうか?
どんな生き物でも、与えられた条件内で最善を尽くしているものじゃないだろうか。
こういう考え方で、ぼくは今の自分を「努力したおかげ」とも「努力しなかった末路」とも思っていない。
今でも、最善の努力の方法を考えている。
それは自分の知能や思考の癖の制約の中であって、もっといい努力の方法はあるのかもしれない。
でも、自分にはそれしかできない。
そういうわけで、ぼくは努力の多寡による人間の価値みたいなものは信じていない。
だから、優れたプログラマが、何か本質的に優れた存在であるようにも思えない。
それはただの運の問題だ。
だからといって、人類みな平等みたいなことを考えているわけでもない。
運の結果とはいえ、上で書いた「格」のようなものはある。
やっぱり、格下の人からは得るものが少ないので、積極的にコミュニケーションを取ることは少なくなる。
もちろん、自分が格上の人から相手にされないのも、そういう効率という意味であきらめている。
でも、そこには「哀しみ」のようなものがあったほうがいいんじゃないだろうか。
人間が平等ではないという哀しみ。
自分がそのピラミッドの中間にいて、上にはもっと優秀な人がいて、下にはもっとできない人がいる。
でも、それはあくまで「たまたま」であって、世界がそういうふうにできているというだけのことだ。
そういえば、昔こういうツイートをしたこともあった。
地球でたまたま頭がよくてだいたいの状況で他人より正しいことが言えるから人をなめた態度になってる人間、銀河系の最高知能が集まる星とかに留学して鼻っ柱を折られてきてほしい
— Манабэ@ищу работу (@takeda25) 2013, 8月 18
これはけっこう本気で思っている。
今の世界で最高レベルのエンジニアでも、「もし周りが自分よりずっとできるエンジニアばかりだったら?」という思考実験をすることは有益なんじゃないだろうか、と。
しかし、現実にはほかの星のエンジニアとやりとりをする機会はない。
だから、超一流エンジニアの鼻っ柱が折られることはない。
それは本人たちにとっては幸せなことなのかもしれない。
でも、それはいいことなんだろうか?
まあ、いろいろウダウダ書いたけど、これは全部個人的な美意識にすぎない。
美意識を人に押しつけるほど不毛なことはないので、日記に書くだけにとどめよう(これまで美意識を人に押しつけるようなブログ記事を書いたことがないかといえば疑問だけど)(また無意識に防衛線を張っている)(まあいいや)。