02/24

(0:44) 今日は布団の中でiPadからの更新(なので長文は書かない)。
iPad(的デバイス)で日本語の長文がストレスなく打てるようになるのはいつのことか…。
 
それでも昨日の内容と少し関連したことを書く。
今日は、自分が格上だと思っていた人が反応してくれていてうれしかった(小並感)。
 
この格というものは、頭脳やセンスなどいろいろなもので決まるものだ。
だいたいは生まれつきだと思うけれど、磨けば多少の上下はあると思う。
 
今日はRails3のレシピブックを買ってきた。
ツイッターにも書いたけど、こういう本も読まないで写経から入るというのは、語学でいうと文法書も読まずに暗記から始めるようなものだ。
ある程度仕組みがわかっていないと、機械的にやっても身につかない。
語学ならすぐわかるのに、プログラミングではその感覚が働かないというのが情けない。
 
今日はすごくいい話を読んだ。
 
Java のソースを改悪されてプログラマ辞めようかと思っていた人だ。
 
半年間 Rails の勉強をした結果、泥沼を抜け出してまともな場所に出られたという話。
 
ぼくもプログラマだから、ソースコード改悪の悔しさはよくわかる。
 
ぼくは、キャプチャしない正規表現を (?:) でなくただの () で書くようレビューで高圧的に言われたとき、今の職場を辞めることを決意した。(まだ辞められていないのは純粋にぼくが無能なせいだ)
 
キャプチャしない正規表現を () で書くこと自体は、そこまでの悪じゃない。
ぼくも昔はそう書いていたし、(?:) を知ってからも使い続けていたし、今でもワンライナーならそう書くかもしれない。
 
しかし、そう書くことを強制されるというのは、まったくの別問題だ。
それは人間としての尊厳に関わることだ。
「() で書いたほうがシンプルで読みやすい」と言われたら、確かに理がないわけではない。
でも、そのトレードオフで、そのいわゆる「読みやすさ」を重視することを選ぶ根拠、それを押し付けられる根拠は何だ? ということを突き詰めたら、相手のほうが「偉い」という「権力」しかない。
 
権力で押さえつけられるというのは、奴隷の立場であるというのと同じことだ。
子供がいなかったら、その日のうちに辞めているところだ。
いくら貧乏で、辞めたら餓死する状況でも、隷属してまで生きる価値のある人生なんてあるものか。
 
それが、子供がいることで身動きが取れなくなる。
一人で勝手に死ぬということがやりにくくなる。
そういうわけで、人生ではない日々を送ることを余儀なくされている。
 
いつか仕事が辞められたら、今の職場にいた時期のカレンダーを真っ黒に塗りつぶして、失われた日々を追悼したい。
(まあ実際は入ったのは去年だし年をまたぐカレンダーなんて持ってないけど、脳内の象徴的なカレンダーということで)
(けっこう長文になった)