(0:50) iPad mini のガラスが割れてしまった…。
Apple Storeで修理してもらうと2万円ぐらいかかるらしい…。
人命3000円換算で7人分ぐらいだ…。
まあ、ぼくの生活の中で最も多くの効用をもたらしてくれているものがiPad miniだというのは疑いのないところなので、しかたがない。
明日、妻にApple Storeに行ってもらおう。
(代理人でいいか一応確認して)
今日は「社会はなぜ右と左にわかれるのか」を読んだ。
実に面白い本だった。
この本では、人間の道徳を六つの軸で分析している。
「ケア/危害」、「公正/欺瞞」、「忠誠/背信」、「権威/転覆」、「神聖/堕落」、「自由/抑圧」というもの。
そして、リベラルが「ケア/危害」、「公正/欺瞞」、「自由/抑圧」の三つにしか立脚していないのに対して保守派はそれらすべてを使っていると言う。
道徳という概念を持たないぼくにとっては、人間の道徳の分析という意味で興味深い。
ぼくはビルトインの道徳を持たないので、その代替物としての理性による何らかのメカニズムをずっと模索していたようなところがある。
それを整理したのが、2年半前に書いた「道徳について - アスペ日記」だ。
「人間は何が自分にとっていいかを判断する能力がある」ということを前提にあるべき道徳の姿を考え、結果として「他人に関係があると思う行動を取る前にはそのことを相手に伝えて交渉する」「他人に関係があると思う情報は相手に伝える」という二本柱の道徳になった。
つまり、「死にたい人間を死なせる」というのはこの道徳ではまったく悪くないことになる。
しかし、六本の軸にこの道徳を照らしてみると、この道徳は「自由/抑圧」にしか立脚していないように見える。
(「見える」というのは、実際にはこの道徳から「人に(無断で)危害を加えてはいけない」といった「ケア/危害」の軸に当てはまるようなことも導けるのだが、それが基本原則になってはいないということ)
これでは人間の道徳と乖離が大きすぎて、とても人間の説得用には使えそうにない。
それにしても、人間がこの六つの軸のような、それ自体論理的に導かれないような道徳的な感性を備えているような原始的な存在であるということには、同種の生物として改めて失望を覚える。
しかし、ぼくはこれまで人間のことを雑多な道徳ミームの寄せ集めみたいに思っていたので(もちろんそういう側面もあるだろうけれど)、それをこの六本の軸に照らして分析し直してみるというのもよさそうだ。
例えば、「食べ物を粗末にしてはいけない」というのは「神聖/堕落」の軸だろうか。
でも、それをどう人間とのインタラクションに生かせるかというのはもうちょっと考える必要がありそうだ。
それにしても、人間が道徳心をビルトインで持っているとすると、道徳心のない生き物に対する生理的な嫌悪感を持つというのもありそうなことだ。
もちろん、ぼくは上に書いた二つの原則に従って、(人間の基準からしても)道徳的に生きてはいるわけだが、道徳心というモジュールを持っているわけではない。
このあたりは気をつけたほうがよさそうだ。