(1:29) 今日は本棚の整理をしていた。
結局、一日つぶれてしまった。
はぁ。
本は見つからないまま。
結局、Amazonで再購入した。
3000円の追加出費。
はぁ。
しかも、整理し終わったと思ったら前の引っ越しで開けていなかった段ボールが出てきたりするというハプニングもあったし。
さらに、一部の漫画(寄生獣など)も見つからない。
はぁ。
さっきまでツイッターでいろいろやりとりをしていた。
何かを改善するということは難しい。
それが比較的簡単なIT業界でさえそうだ。
何かの操作を行うというとき、たとえばチェックリストを使うという方法がある。
(最近「あなたはなぜチェックリストを使わないのか」みたいな題名の本を買ったけど、チェックリストの良さがわかるいい本だった)
しかし、その一般的な方法は、IT業界では必ずしも最善とは限らない。
二つの操作を同時に行わなければならないとき、それをチェックリスト化するよりも、その二つの操作を一つの操作としてまとめて自動実行させたほうが確実だ。
もちろん、自動化を行う際には、それまでできていたことができなくなったりしていないか、自動化をするコストはそれによって削減できる手間に見合うのか等、いろいろ考えるポイントはある。
ぼくも前職では、同僚と相談をしながら、コストに見合うと判断したところではいろいろなレベルで自動化を進め、それによって開発効率は上げられたと自負している。
しかし、ボトルネックはやっぱり「人」だ。
長期的に合理的でコストのかからない方法があったとしても、今のやり方で問題ないという人がいたら、そこで止まってしまう。
今日話したのは、大学事務の話。
大学事務を合理化・効率化するなんていうのは途方もないタスクで、それができていないことで事務職員の人を責めるのは筋違いだろう。
必要な書類を必要なだけの余裕を持って通知するという簡単なことすら、現場では難しいのかもしれない。
しかし、ぼくは「責める」ということをしたいわけじゃない。
問題があったら、その問題を認識して、長期的な道筋を考えるということをしたいだけだ。
必要な書類が直前まで通知されないということは、よくないことだ。
ぼくはそこを出発点にしたい。
しかし、何かをよくないと言うことは、人間にとっては自動的に「責める」という行為として解釈されるようだ。
そうじゃない。
ぼくはまず、共通認識としてそれが直すべき問題なのか、直さないでいい問題なのかということを考えたうえで、直すべきなら次のどう直すかというところに話を移したいだけだ。
それは自分と直接関わることではないし、ただの外野の意見でしかないけれど。
(外野はそもそもシステムについて意見を述べるべきでないということなら、それはまた別のレベルの話になる)
この、「よくないと言う=責める」の自動変換は本当にしんどい。
(しかし、この式はいかにも人間にとっては自然そうな式だ)
人間側は、この「よくないと言われたら責められていると感じる」ということを、本質的にいいと思っているんだろうか?
ぼくであれば、もし自分にそういうところがあれば、それは本質的によくないと感じて、直そうとすると思うのだが…。
しかし、この機構は人間にとってはビルトインのもので、直したくても直せないのかもしれない。
しんどい。