(2:09) 今日は家族の一員の誕生日。
より具体的には、ぼくとEのどちらかの誕生日で、12/11にはその二人のうちのもう一方の誕生日がある。
(恒例行事)
(そりゃ誕生日だから)
(なぜこういう書き方をするのかというと、他人による祝われを避けるため)
(祝われは人間関係なので)
(誕生日を祝われるのもめんどくさいならもう生きるのやめたほうがいいんじゃない?)
(自分の中の他者の声)
(ちなみに、どちらがぼくの誕生日かはちょっと調べたらわかるはず)
(しかし、その労力をかける人はぼくの祝われ嫌いを知って祝わないでくれるはず)
晩ご飯は何か特別なものを食べようということで、ピザクラスのものを食べた。
(ピザクラスのものとはピザのことです)
(福満しげゆきネタ)
(漫画の中にそういうのがある)
(それを見てから、ピザについて言及するときには必ず「ピザクラスのもの(ピザクラスのものとはピザのことです)」と書かないといけない呪いにかかってしまった)
(どうでもいい)
(たぶん前も書いた)
ケーキも食べた。
おいしかった。
誕生日の祝われが嫌な理由をちょっと掘り下げてみる。
まずひとつの理由として、1年ごとで区切るという意味があまりわからないというか…。
ぼくの人生と地球の公転周期に何の関係が? 的な。
(それを言うとすべての記念日は祝えない)
(まあ、実際すべての記念日を心から祝えないんだけど)
(他人の誕生日は祝える)
(誕生日を祝われることは普通うれしいだろうという推測のもと)
(祝われがうれしくない人は他人に誕生日を伝えないなどの対策を取っているはずなので、ぼくが誕生日を正当なルートで知った人間の誕生日を祝うことに問題はないはず)
後は、社交辞令が嫌いというのもある。
ツイッターで言うと、例えばぼくにとってMさんとかHさんとか藻さんとかCさんとかりつさんとか、そのレベルの親しさの人なら、心の底から幸せを願うことができるし、嘘をつく必要はないけど、そうでもない人に対してはそういう気持ちは自然には浮かばないので、誕生日を祝うということは嘘をつくことになる。
ぼくも、例えば自分の誕生日をネットで確定的に言ってしまうと、そういう嘘の入った祝われが生じてしまう。
それは避けたい。
(ところで、ぼくにとってりつさんはかなり親しい存在なのだが、りつさんにとってはそうではないそうだ)
(片思い)
(悲しい)