09/22

(0:53) 今日は名古屋の学会のワークショップに参加する(聞くだけ)日。

 

朝、子供を幼稚園に送ってからプールに行ってきた。

一旦家に帰って車の鍵を置いて出発。

 

近鉄で京都に行く際に、国際会館行きの電車に乗って、竹田駅で乗り換えないといけないところを寝ていて乗り過ごしてしまった。

かなりのタイムロス。

 

京都駅で、京都駅でいつも食べる昼食(パスタモーレという店の「ベーコンとほうれん草のジェノベーゼ」)(575)をまた食べた。

 

新幹線の自由席で名古屋へ。

当然のように座れた。

(いつもながら不思議)

(どうして確実に自由席に座れるのに人は指定席を買うのか)

 

名古屋駅で地下鉄に乗り換えて名古屋大学へ。

自販機が先に金額を選ばないといけないタイプでムカついた。

(ツイ参)

(ツイ参についてはえちぜんさんの日記を参照)

(えちぜんさんについてはツイ参)

(解決できないのでは?)

 

5分遅れぐらいで会場に着いた。

 

講演は、つまらない無の講演と面白い無の講演があった。

フリーセルをやりながら真面目に聞いていたが、講演が無だったので得たものもやはり無だった。

(そういえば、「無」と「有」は「無意義」「有意義」のように置き換えられると思っていたけど、今日の講演について考えると、ちょっと違うかもしれない)

(面白い無の講演は、内容が空虚である(よく考えると「機械翻訳と人間で協力してやっていきましょうね」ぐらいしか言っていない)という意味の無であって、無意義というわけではない)

(面白いという時点で有意義ではあるし、そのコンセプトを効果的に伝えるという点でも有意義だろう)

(しかし、20分ぐらい話した内容が1行で要約できるというのは、やはり無だ)

 

ワークショップは17:30終了。

晩ご飯はツイッターでアンケートを取って新幹線駅のきしめんにした。

 

きしめん屋は立ち食いで、雰囲気が殺伐としていて嫌だった。

一番嫌だったのは、みんなが食べ終わって出るときに「ごちそうさま」と言っていたこと。

ぼくも同調圧力に負けて「ごちそうさま」と言ったけど、そう言わないといけないとわかっていたら最初から入らなかったのに…。

大ダメージ。

(ぼくは「考える余地のある挨拶」がものすごく苦手だ)

(外国のレジのハローとかボンジュールみたいなのは考える余地がないし、向こうも同時に声をかけてくるので間違いである可能性はない)

(しかし、飲食店の「ごちそうさま」は、考える余地がありすぎる)

(例えば、マクドナルドで「ごちそうさま」と言って出る人間はいない)

(だが、これをスペクトルの一端として、「ごちそうさま」を言うか言わないかの程度には大きなばらつきがある)

(そもそも、昔はほとんど言う人はいなかったはず)

(誰が始めたのか)

(始めた人間を殺したい)

(とにかく、「ごちそうさま」を言うか言わないかを考えるぐらいなら世界最高の美食ココイチだって食べないほうがマシだ)

(そう考えると、ぼくにとって食というのはそのぐらいの意味しかないことになる)

(世界最高の美食を食べることより、コミュニケーションをひとつ減らすことのほうが大事)

(生きる楽しみがない…)

(しかし、そうなっているものはしかたがない)

(早くすべての飲食店が全自動化されてほしい)

 

帰りの新幹線ではまたアイスを買って食べた。

 

家に着いたのは8時過ぎ。

 

全体として、無なりにいい無だった。

しかし、精神には負担がかかっていたようで、体調に出ていた。

(精神に負担がかかったときのシグナルのようなものがある)

意識的には、普段の仕事のほうがしんどい気がするんだけど、意識と無意識にはずれがある。