(0:50) 今日は髪を切って、プールに行って、京都に行ってココイチの豚しゃぶカレーを食べて、アバンティでちょっと本を見た。
その後は奈良で人と会った。
食べ過ぎた。
今日も自閉症の本を買ってきた。
人間についての学びを得るため。
「ウタ・フリスの自閉症入門」に面白いことが書いてあった。
人々は、それぞれの顔、身体、目、そして歴史をたずさえていつも私たちの周りにいるというだけでなく、絶えず私たちの心や記憶、夢、あるいは想像の中に存在しています。そうではないというようなことが自閉症の人たちではあり得るのでしょうか。なんと大きく異なる内面生活を、自閉症の人たちはもっているのでしょう。
私たちは、数年ぶりに、ある友人に再会した場合、友好的に別れたのか、仲たがいがあったのか、苦もなく思い出せます。もしそれができなかったら、と想像してみてください。
この本は一貫して「健常者目線」で書かれている。
それが面白いところだ。
(自閉症者が書いた本もある)
特に後者は、ぼくには想像を絶する。
ぼくにとって人間のモデルというのは、直接会って話をするときに暫定的に脳内に作られるもので、会っていないときにはデジタルにエンコードした知識がすべてだ。
どうも人間というのは、目の前にいない相手に対しても「脳内モデル」のようなものを維持し続けているらしい。
この本に書かれているアスペルガー症候群の人の言葉として、こういうのがあった。
私たちの大部分にとって覚えておくのが難しいものに、何かを誰に言って誰には言わなかったのか、ということがあります。ニューロティピカルの人たちは、自分が知っているすべての人について、心のファイルか記録を保管できているようにみえます。そのファイルには、自分が言われたたわいもない嘘まで記憶に残すための心のメモ書きをつけて、実に詳細に、書かれているようです。
考えてみると、ぼくも人生のどこかの時点で、嘘をついてその嘘を維持することが実質的に不可能なことに気づいて、それ以降は基本的に嘘をつかないように決めている。
このことについて、ぼく自身では「嘘は割に合わないもので、それに気づいた自分は優れている」という整理の仕方をしていたが、それは考えが浅すぎた。
人間にとって、嘘は維持可能なのだ。
他人のモデルが常に脳内にある生活。
それはいったいどういうものなんだろうか?
まあ、それは考えてもしょうがない。
他人にとって色がどう見えているか? というのと同じことだ。
しかし、色覚にいくつかのタイプがあるのと同じように、人間についての情報処理の仕方にも大きく分けると二つのタイプがあるということは確かだろう。
まだ読む本はいろいろあるけど、この本は早めに読もう。