(1:33) 今日もあまりたいしたことは起こらなかった。
午前は家族で買い物。
帰って昼ご飯を食べて昼寝。
午後5時ごろに近くの巨大建造物内の喫茶店に行って読書。
「両親をもたない人たち」を読み始めた。
この本はいろいろと面白い。(後述)
それからプールに行って帰宅。
帰りに子供のクレヨンを買った。
夜、スペイン語のオンラインレッスンを受けた。
その後また「良心をもたない人たち」の続きを読んでいた。
ツイッターでツッコミを入れたりしながら読んでいるのでなかなか進まない。
まだ1/3ぐらい残っている。
最近、心を失ってから取り戻した人の話を読んで絶賛アスペについて考えようキャンペーンを始めてから、本の読み方も少し変わった。
ぼくは昔は、本を読むのは主に「字を追うため」だった。
例えば、小学校時代、意味もわからないのに「デミアン」とかを読んだ覚えがある。
内容は一文字分も頭に残っていない。
もちろん、個々の文は理解しているのだが、ストーリーという意味ではまったく理解していなかった。
その後、本を読む目的に「ストーリーを楽しむ」「情報収集」が加わった。
(といっても漸進的なもので、星新一のような簡単なものは昔からストーリーを楽しみながら読んでいたわけだけど)
今では、本を読む目的のほとんどは情報収集だ。
しかし、本の読み方のひとつとして、「書かれていることについて考える」ということがあることに最近になって気がついた。
(これも漸進的なものだが)
例えば、「良心をもたない人たち」にはこんなくだりがある。
どんなに内向的な人でも、だれかとの関係によって自分が成り立っており、ほかの人たちへの反応や感情、反発や好意が自分の中で大きな比重を占める。
このあたりは、情報収集が目的であればスルーしてしまうところだ。
人間がそういう存在であるということはこれまで言われ尽くされているし、新たな情報はない。
しかし、ここで「書かれていることについて考える」ということをすると、急に話が変わってくる。
どんなに内向的な人でも、だれかとの関係によって自分が成り立っており、ほかの人たちへの反応や感情、反発や好意が自分の中で大きな比重を占める。
そうか?
「考えて」みると、ぼくはそんなふうにはできていないじゃないか。
アスペというのは、自分本来の強い欲求や感情というものをあまり持っていない。
(いろいろなこだわりはあるけれど)
食欲や性欲が相対的に弱いのはもちろん、社会的欲求はゼロと言っていい。
強い欲求や感情がないのに人間として動くことを期待されて育つので、自然と内部で人間エミュレータみたいなものを構築していくことになる。
そういうわけでアスペは基本的にエミュレータを動かしながら生きているので、本を読んでもエミュレータ抜きの自分で考えるということはあまりしない。
というか、してこなかった。
会話の場合を考えると、
どんなに内向的な人でも、だれかとの関係によって自分が成り立っており、ほかの人たちへの反応や感情、反発や好意が自分の中で大きな比重を占める。
という趣旨の話を相手にされたら、「そうですよね、人間ってそういうものですよね。やっぱり人間にとっては人間関係が大事で…」と適当に話を合わせるところだ。
しかし問題は、これを本を読むときにもやってしまっているということ。
ちゃんと考えずに読んでしまっているということだ。
しつこく再掲。
どんなに内向的な人でも、だれかとの関係によって自分が成り立っており、ほかの人たちへの反応や感情、反発や好意が自分の中で大きな比重を占める。
これを、自分に引き比べてちゃんと考えてみる。
すると、ぼくの中では「ほかの人たちへの反応や感情、反発や好意が自分の中で大きな比重を占め」ていないということはほとんど自明だ。
ぼくにとっては、人間がいるとエネルギーが削られ、人間がいないと本が読めるので充実する、それぐらいしかないじゃないか。
最後に再掲。
どんなに内向的な人でも、だれかとの関係によって自分が成り立っており、ほかの人たちへの反応や感情、反発や好意が自分の中で大きな比重を占める。
これが本当だとすると(本当なのだろう)、人間は常に人間のことを考えながら生きているということになる。
こういうことについても、これまであまり考えてこなかった。
人間エミュレータを動かすうえでは必要にならないからだ。
これまで、アスペについても、人間についても、真面目に考えるということをしていなさすぎた。
もっと真面目に考えてみよう。
QOL の向上につながるかもしれないし。
肝心の「良心をもたない人たち」についてはまた明日書こう。
まだ読み終わってないし。