(0:24) 今日は早めに! 寝る!(1時より前に)
大学院の同級生に会ってきた。
K君はいつもの後輩の話。
前からだけど、彼はかなりのポジティブ人間になっていて多少ウザい。
(こういうことを書いても響かないだろうとぼくに推測させる程度にポジティブ)
「人間頑張れば何でもできる、自分で自分に限界を設定するな」という感じ。
まあ、そういうことを無邪気に信じられたらよかったんだろうけど、いかんせんぼくは能力に偏りがありすぎて、そういうナイーブな考え方はできない。
たとえば、筋トレを中学のころ部活でやったけど全然筋肉はつかなかったし、高校のころは世界史で赤点を取って頑張って勉強したけど、それでも55点がせいぜいだった。
逆に、簡潔データ構造・ウェーブレット木/行列・BWT・FM-Indexなどは大学院や本や論文でそれぞれ1〜2時間勉強しただけですっと頭に入ってきた。
(院では上記のK君と一緒に二人勉強会をすることがよくあったが、K君のほうはかなり苦労していた)
そりゃ、どんな分野でも頑張れば頑張っただけ自分なりに能力は伸びるのだろうが、分野によっては25点が55点になる程度だったりするわけで、それでは生存の役に立たない。
だから、自分の向き不向きを考慮したうえで頑張る方向性を見極めないといけない…。
と、まあごく当たり前の考え方をしているわけだが、どうもこの考え方はK君のポジティブ脳からするとよくないらしい。
「そんな悲観的な考え方をされると、自分の考えに自信がなくなるから迷惑」的な論調だった。
なるほど、ポジティブ人間がポジティブを広めようとするのはそういう動機か。
まあ、ぼくとしては上記のような事情でポジティブ教徒にはなれないわけだけど、それでもK君のエネルギーはうらやましいし、何とか自分でも持ちたいところだ。
しかし、ぼくは思考回路を合理性ベースで組み立てているので、嘘を混ぜると整合的なものが作れない。
合理的でありつつ宗教的ポジティブさを組み込むにはどうすればいいか…。
考えてみると、ぼくの思考回路も完全に合理的というわけではなく、いくつか虚構を入れてある。
「来世」というのはそのひとつだ。
この人生ではうまくいかなかったとしても、来世があるから次で頑張ろう、的な。
それができているのは、すでにビルトインされている「明日」(未来)という概念の虚構性によるところが大きい。
明日というのが本当にあるかどうか、実際のところはわからない。
それでも、「明日は必ず来る」という虚構を信じた思考回路を作っているし、それは一日ごとに正のフィードバックを受ける。
もちろんそれは、来月・来年等についても言える。
その前提があれば、それに「来世」という虚構を入れることはたやすいことだ。
ということは、たとえば「ポジティブに生きたら来世以降でいいことがある」というふうに思考を構築すると、ポジティブになる助けになりそうだ。
それは、「食べるものを少なめにしたら明日以降(体重が減って)いいことがある」というのと同じようなものだ。
そういったものとしてはすでに「カルマ」のような概念があるし、そこに連結させることにしようか。
「今世で自分にできる限りの努力をしたら、カルマが解消されて来世以降で幸せになれる」ということに。
ただ、宗教にするには儀式がないといけないんじゃないだろうか。
そうしないと身体的に響かないというか。
とりあえずラジオ体操でもしてみようかな。
(ただの生活習慣だ)
まあ、できる限りいい感じになれるように頑張ろう。