02/18

(0:49) 今日は旧暦の大みそかということで水餃子を食べた。

(個人的には旧暦にあまり思い入れはない)

 

いま「こころの科学 174 自閉症スペクトラム」を読んでいる。

主に自分自身についての興味から。

(子供についてよりも、という意味で)

 

自閉症当事者の寄稿もある。

読むと、「エセ自閉症者」への敵意が強く感じられる。

この人は仕事もできなくなったほどの重症だそうだ。

 

この人は次のように書いている。

「自分をASDと言いたがる」が、どう考えても知的障害のある古典的自閉症の人たちのあの「聡明に見える容貌」(レオ・カナー)や、平和でシンプルな「自閉症のよさ」を感じられない人たち。そして何よりも、作為が読めるという点で私とは決定的に異なる人たちをいったいどのように理解すればいいのだろうか?

いやぁ、これはひどい

いくら本人が自閉症だといっても、そのことが他者が自閉症かどうか判断する資格になるわけじゃないだろう。

そもそも、レオ・カナーの「聡明に見える容貌」は古典的自閉症のものであってアスペルガーに当てはまるとは限らない、という以前に、「特徴」と「診断基準」は別物だ。

自閉症者の多くが「聡明に見える容貌」をしていたとしても、「聡明に見える容貌」をしていないと自閉症でないとはいえない)

作為が読めるというのが具体的に何を指しているのかはわからないが、人間インターフェイスを備えている自閉症者なら、(人間ほどではなくても)他人の作為が読めるのも当たり前の話だ。

 

まあ、自閉症スペクトラムというぐらいだから重症度にはいろいろあるのだろう。

ぼくは、自閉症スペクトラムであったとしても相当軽度なほうだ。

(社会生活が曲がりなりにもできているという意味で)

しかし、中度の人間が軽度の人間を「エセ自閉症」のように言うというのはどうなんだ。

(もちろん、軽度と中度を交ぜると中度が被害を受けるという意味で交ぜるなというならわかる)

それも障害の一環ということなのかもしれないが。

 

ぼくは一度アスペルガーの会のようなものに行ってみたことはある。

しかし、感じたのはやはり、アスペルガー自閉症)というのは欠陥なんだなぁという(ある意味当たり前の)ことだ。

やたらと怒りやすい人もいれば、知能が少し低い人もいた。

ぼくには合わなそうだった。

 

幸い、ツイッターでは自分と似た感じの人(知能が相当平均より高い自閉傾向のある人)が数人いる。

TL でもたまに言及する公然の事実だから書くと、以前東京で会った A さんと、簡潔データ構造つながりの E さん(M さん)だ。

(最近ツイッターでよく絡むようになった女性の N さんもかなりその傾向があるけど)

(ほかにもつらそうな人はいるけど自閉症かどうかはわからない)

 

適応度は A さん > ぼく > E さんという感じだ。

(直感)

(実際のところはわからないけど)

 

ところで、自閉症の診断には生育歴が必要ということが多いらしい。

(この自閉症の人もそれを強く主張している)

しかし、ぼくのような「生きていける」タイプの場合、わざわざ親や兄弟姉妹を巻き込んでまで診断を受けるだけの動機はない。

(動機がなければ診断を受けるなというなら乱暴な話だ)

 

そもそも、自閉症というのは脳でわかるんじゃないのか。

それに、自閉症者の得意なタスク・苦手なタスクというものもある。

(専門書にいろいろ書いてある)

それらによって、客観的に診断できるようにならないんだろうか。

 

まあ、実際のところはやはり診断をする動機がないということなんだろう。

改善の兆しもあまり見えない。

はぁ。

というわけで、自閉傾向がある知能の高いタイプは、診断を受けることもできず、これまで通りのつらい人生を歩むしかないということになる。

(診断を受けたからといってつらくなくなるわけではない)

 

そういえば、人間が得意とすることに「オブジェクト視(仮称)」というものがあるようだ。

視界から自動的に「オブジェクト」を抽出して、無意識にタグづけする能力。

(人間が人間の認識が得意だというのは既知だったが、オブジェクト一般の認識も得意らしい)

 

ぼくも意識的にやれば認識できるが、普段はまったくオブジェクトを認識していない。

今日、意識的にオブジェクト認識モードを(人間のように)無意味にオンにするということをやってみた。

 

すると、いつも昼休みに横になりに行く仮眠室で、床に電気スタンドが転がっているのに気がついた。

こういうのは、いつも E に「なんで気がつかないの」と言われるようなパターンだ。

ぼくにとって、床に転がっている電気スタンドは意味がないからオブジェクト認識されない。

しかし、人間(E のようなタイプ)は常にそういうオブジェクトを認識しているようだ。

 

そのほかには、「談話室」というプレートのあるドアも発見した。

(これも、何回も目の前を通っているのに意識していなかった)

開けてみると、ここにもベッドがあった。

明日からはここを使おうかな。

 

というわけで、オブジェクト認識モードというのはけっこう役に立つのかもしれないと思った一日だった。