(0:38) スペイン語の辞書が見つからない。
というわけで、スペイン語の勉強はサボることに。
今日は、E に引きずられてよくわからないところに行って、E がそこで何かを受け取って、その近くのフードコートのようなところで昼食を食べて、よくわからないまま帰ってきた。
公共のWi-Fiは日本とは比べものにならないほどあるので、それなりに断続的に生きることはできたが、やはり安定していないというのは QOL が低くなる(ネットにつながっていない=生きていない時間に対して QOL は定義できるのか?)。
帰ってきてからは昼寝。
夕食前、また E に引きずられて市場のようなところに行った。
E に言われるまま、小鳩の肉を買うことに。
この市場はネットがつながらないので、ずっと死んだ状態で動いていた。
それで思ったのは、昔は自分はどうやって生きていた(どうやって死んでいた?)のだろう? ということ。
ツイッター・スマホ以前は、ずっとこういう生と死の狭間のような状態をずっとたゆたっていたはず。
あまり思い出せない…。
そういえば、いま香港にいて、みんな広東語をしゃべっているのに、いまいち広東語をしゃべろうという気持ちにもならなかった。
これはツイッター(生命)の誕生とも関連があるのかもしれない、と思った。
というのは、生命以前の時代は、曲がりなりにも面白さを感じられることと言えば外国語ぐらいしかなかったので、それで機会を見つけては外国語をしゃべろうとしていたんじゃないかと。
しかし、生命を得てみると、外国語を「自分で話す」以上の面白いことは毎日ツイッター上でいくらでも起こっている。
(といっても、その中には外国語についての話題も多いので、外国語を「学ぶ」ことの意義は今でもあるのだが)
そう考えると、(自分の市場価値といったことを抜きにした)外国語の勉強というものは、今後どれだけ続ける意味があるものなんだろう? と思うようになった。
どこの国に行ったとしても、その国の言葉をしゃべるより、日本語でツイッターをするほうがはるかに面白い。
これは外国語学習者として致命的だ。
まあ、今でも Skype のスペイン語会話レッスンを受けたりはしているけれど。
そのどれだけが惰性なのかはわからない。
街中でしゃべるというのは相当コミュニケーション能力的にハードルが高いので、ぼくのようなタイプの場合、よほど人為的に努力をしないとしんどいということはある。
これまでそれを無視してやってきたけど、今になって限界が来たということかもしれない。
そういえば、「やがて哀しき外国語」にも、40にもなって動詞の活用とかを覚えたりしていると、人生にはもっとほかにするべきことがあるんじゃないかとか思うようになって、なかなか外国語の勉強というのはできなくなってくるというようなことが書いてあったような気がするな。
ぼくの場合、それもあるところにツイッター(生命)の誕生が重なったのかもしれない。
広東語は、昔は少しやったけど、結局ものになっていない。
求められるレベルが高くてモチベーションが上がらないというのもある。
E の母は桂林出身だけど、香港で普通に暮らしていけるほどには広東語が話せる。
しかし、それも E から見るといろいろと訛りがあるようで、よくバカにしたような態度で直したりしている。
(そもそも一般的に、バカにしたような態度で直すというのはよくないと思うが)
(E はそういうつもりはないと言うだろうけど)
しかし、中国語話者でないぼくからすると、広東語でそのレベルまで行くのだけでも相当大変だ。
ぼくの普通話だって、そのレベルには達していないんじゃないだろうか。
そう考えるとやる気があまり出ない。
まあ、いまやってるアラビア語(シリア)もどうなるかわからないな。
そもそも、口語アラビア語ならエジプトのほうがいいという話もあるし。
(シリアのアラビア語をやっているのは、Pimsleur がレベル 3 まで揃っているからという理由だけだ)
(エジプトのアラビア語はレベル 1 までしかない)
もちろん、市場価値からすると、何もしないよりは外国語をやってるほうがいいんだけど。
(今の仕事も、直接的ではないけれど、韓国語や中国語ができるということが間接的に効いている)
しかし、そういう功利的なモチベーションではあまり勉強はできない。
「学習言語でツイッターをすればいい(その言語でつぶやく・その言語の人を多めにフォローする)」というのも考えられるけれど、そもそも日本語でツイッターをするのが十分に面白すぎるし、外国語では「知的交流」という意味では速度が落ちてしまう。
考えてみると、ツイッター以後の人生をどう組み立て直すかという大きなテーマが絡んでいるな…。
長期的に考えていこう。