(1:29) 今日は無職の一日を満喫した。
午前中は公園に行って、「嫌われる勇気」を読んだ。
まあツイッターに書いた通り、しょうもない宗教書だった。
すべては気の持ちよう、的な。
まあ自己啓発好きな感じの人にはいいんだろうけど。
処分決定。
昼はしばらくゴロゴロして、それから年金事務所に行ってきた。
自転車で20分ぐらい。
用紙を送ってくれるからそれで払い込めばいいそうだ。
その後、喫茶店へ。
今日はちょっとした想定外のことがあった。
アイスコーヒーを頼んで、「ミルクおつけしますか」と聞かれてはいと答え、ガムシロップを取って席に着いた、はずだったが、しばらくして見るとミルクを取り忘れていたことに気がついた。
ちょっと考えて、最適解である「コーヒーを放置して、水を取ってきて飲む」という行動を取った。
ミルクをもらいに行くことの精神的コストは少なく見ても5万円程度、それに対してアイスコーヒーは200円だ。
答えはあまりにも明らかだ。
それはいいのだが、改めて自分のコミュ障っぷりを実感してしまった。
常人なら、ここで普通に店員に声をかけるところだろう。
ぼくの場合、それができないわけではないけど(声をかけることによって10兆円手に入って一生働かなくてよくなるなら声をかける)、可能な限り全力で回避したい。
自然にしているとそうなってしまう。
(ここでアドラー教の人間がいたら「そうであることを選んでいる」とかたわごとを言いそうだ)
やっぱり、ぼくはこのコミュ障性と付き合いながら生きる道を探さないといけないんだなぁと実感する。
(面倒だから手っ取り早く死にたいところ)
(そう簡単にいかない)
喫茶店では「プログラムは技術だけでは動かない」を読んだ。
ネットワークプログラミングの神的な人の成功談。
すごく生きる力のある人だ。
来世以降の参考にしよう。
(今世ではコミュニケーション能力が上に書いたような有様なので)
まあ、「こまめに連絡を取る」というのはぼくはけっこうできているほうだと思う。
ライン工時代も、これさえ守っていればまともな人間と仕事するのはけっこう楽だった。
元同僚の K さんは、それができていなくて彼自身や周囲が困ることが多かった。
あまりにも自責傾向が強すぎて、「聞く前に自分で解決しよう」として時間をかけすぎてしまう。
その結果、仕事ができなくなるので、さらに自責傾向が強くなる。
悪循環だ。
そういう場合、まずはプレッシャーの少ない(能力的に余裕を持って働ける)環境に身を置くのがいいと思うんだけど、まあ正社員で安定しているから難しそうだ。
しかし、今のままでは人生を無駄にしているように見える。
(そもそも、あのライン工の仕事では技術力の向上は見込めないし)
人ごとながらもどかしい。
話は変わって。
妻は、部屋に入ってくるときに変なノックのしかたをする。
拳の裏の骨でカカカカッと鳴らすような。
(伝わりにくい)
ぼくはそれが人をなめ腐った感じに聞こえるのですごく嫌だ。
それで、妻に「普通にノックして」と伝えてみたのだが、「なんで」と言う。
「今のノックのしかたが嫌だから」と言うと、「別にいいじゃん」という態度。
そう言われるとどうしようもない。
嫌なのはこちらの感じ方なのに、妻の感じ方で「問題ない」と言われても。
人間として生きたい…。