(22:24) 続けて、もう少し書いてみる。
もちろん、こっちはブログじゃなくて日記なので、頭の整理のため。
徹底的に自分と合わない人間二人をまだ書いていなかった。
7. サイコパス
これは、普段は「人間のゴミ」と呼んでいる一人を指している。
異常なプライドを持っていて、ちょっとでも自分を悪く言われると狂犬のように相手に噛みつく。
建設的な議論をするという発想がそもそもなく、相手に精神的ダメージを与えるためならどんな牽強付会でもためらうことがない(また、自分の中では常に理屈が通っているつもりでいる)。
卑怯なので、相手を口汚く罵ったあげくにツイートを消して証拠隠滅をしたりする。
ぼくは最初に関わったときは相手の人間のゴミ性に気づかなかったが、その際の卑怯な行動を経験してから、相手を「人間のゴミ」というカテゴリに入れて放置している。
しかし、そういう卑怯な行動をしていながら、この生き物は自分のことを「人間のゴミ」としてアイデンティファイしていないようで、ぼくがそう言及すると怒ったりするようだ。
まあ、証拠はちゃんと消しているから、そういう体験をしていない人間にはその生き物の人間のゴミ性が見えないのはわかるとして、その人間のゴミ性を直接体験したぼくに対して怒るというのは、サイコパスとしか思えない。
「相手を口汚く罵ってその証拠を消す」ということをしても、自分が悪くないとナチュラルに思っているんだろう。
その思考回路がどうなっているのかは謎だ。
8. 未分類
ネット上で一人、やたらとぼくと合わないなという人がいる。
まあ、この前絡んだから相手が読めばわかるだろう(しかし、読ませることを意図しているわけではない。最初に書いた通り、自分の頭の整理のために書いていて、読むかどうかは相手の自由だ)。
この人には適当なラベルが貼りにくい(が、そこまでレアなタイプでもないと思っている)。
ぼくから見ると、人間の心が死んでいるタイプだ。
自分の中にいろいろな美学・価値観を持っていて、それに従って行動している。
(たとえばワーカホリック的な価値観を持っているらしく、俺こんなに働いちゃったよー的ミサワ発言がたまに観測できる)
また、(サイコパスのような卑怯な行動こそ取らないものの)勝つことを目的に議論をしていて、そのためには相手を感情的にさせる(ことを狙って発言する)ことも厭わない。
(ちなみに、そのような行動はぼくにとっては倫理に反するが、その人の倫理には反しないんだろう)
また、自分の思っていることを率直に言わず、持って回った言い方をする。
建設的な議論をすることが目的なら率直になるというのはお互いにいい戦略だと思うのだが、勝つためなら持って回った言い方のほうがいいんだろうか?
さらに、感覚的な話を(ぼくから見ると病的なまでに)軽蔑し、形式的な厳密さを求める。
(ぼくの立場としては、人間の感覚を無視して形式的な厳密さを追求したら何も言えなくなるので、それぞれの感覚を感覚として話すのがいいんじゃないかと思っている。厳密なことを言ったら、目の前で誰かが人を殺すところをぼくが目撃したとしても、その誰かが犯人だということすら言えないじゃないか(ぼくがそういう幻覚を見たのでないという保証がない)。)
以降、この前の件に特化した話を書く。
L さんが学生事務でひどい目に遭った(必要なことが前もって知らされていなかった)という話を見た。
TL では「雰囲気読んで自分から聞きに行く」ということを推奨する意見があった。
大阪外大時代(はるか昔だ)に学生事務で嫌な体験をしたことがあるぼくは、それに乗っかる形で学生事務全般に対してdisるようなことを言った。
(それ自体は褒められたことではないかもしれないが、ぼくとしてはぼくの裁量範囲内の行動だと考えている)
そのときにこの人と話すことになったのだが、かなり不快な経験だった。
ぼくのほうの立場は、(個人的な恨みは置いておいても)必要なことは合理的な余裕を持って知らせるべきだというものだ。
そのときに、社会不適合者にも生きやすい社会の実現を目指すという意味で応援していると書いた。
必要なことを合理的な余裕を持って知らせるということがされていたら、「雰囲気を読んで行動する」能力がなくてもやっていけるからだ。
すると、「社会不適合者に優しい人のみが事務にというのは、裏を返すと社会不適合者の就職の機会を奪うことにもなる」(一部修正)だそうだ。
冷静に考えると、論理性もなにもない言葉だ。
そもそも、ぼくは「社会不適合者に優しい人のみを事務に」とも言っていないし、「社会不適合者は社会不適合者に優しくなれない」というのもどこから出てきた理屈かわからない(ぼくの感覚では、社会に適合した人間のほうが社会不適合者に厳しいと思う(この人のように)のだが)(まあ、同じぐらい根拠のない話だが)。
しかし、相手の意図通りかどうか知らないが、ぼくは感情的になってしまった。
相手からしたら、「相手を感情的にしたら勝ち」なんだろう。
ぼくからしたら、こういう人間はぼくの倫理観に合わない。
というのは、ぼくは「話をするときは自分の思っていることをできる限り誠実に伝える」というのを旨にしているからだ。
(相手がそうしていなかったかどうかは証明不可能だが、これは相手に対するメッセージではない)
表面的な「明らかに虚偽であることを言わない」ということを建前のルールとして、その中でいくらでも汚いことをしてもいいというのは、ぼくとしては一生近づきたくない世界だ。
まあ、そういう世界が存在しているのは知っているし、その人がその世界で強者だというのもわかる。
しかし、ぼくはそういう戦い方ではやっていけない(そもそもそんな人間的な能力はない)ので、世界対世界の戦い(実質的な誠実さをよしとする世界 vs. 形式的なルールを守ればいい世界)でやっていくしかない。
その戦いは、主にブログなどでのミームの戦いということになる。
発達障害者が、人間と一対一で戦って勝てるわけがない。
少しでも、人間の中の「生きやすさ」を求める一部に呼びかけ、社会全体の雰囲気をよくするようにしたい。
まあ、それで実質的に何がどう変わるかというと知れているが、ただの自己満足だ。
(16:41) 喫茶店で、傷ついた心を癒やしている。
しかし、傷ついたディスプレイは直らない…。
使えないわけではないんだけど。
悲しい。
今日は土曜なので休日扱い。
(ぼくは無職のときも平日と土日を区別して、平日は勉強などをして土日に休むようにしている)
いまちょうど手元に読みかけの本がない(明日本屋に行く予定)ので、昨日の夜に書こうと思っていた「合わない人」について、ひいては「人間のタイプ」について書いてみようと思う。
リアルで合わない人(前職での実質上司)について書くのもいいけれど、先にネット上の存在について書いてみる。
というのは、ぼく程度の低いレベルでリアルで関わる人間はこう言っちゃ何だがいろんな意味で凡庸で、特徴が薄いからだ。
そういうわけで、ネット上での合わないタイプ。
1. マッチョ
オープンソースで死ぬほど活発で、すごい人(マッチョとは限らない)同士でいつもつるんでいる。
プログラミング言語のマニアックな話題で盛り上がったりしている。
面白スライド的なものを作るのが得意なことが多い。
若い人が多く、人生経験が少なく、自分がすごいのは自分の努力の成果だと信じて疑わず、世の中のうだつの上がらない人間は努力が足りないと思っている。
人間の発言権は偉さに比例すると考えていて、このタイプではその偉さはオープンソース等への貢献度ということになっている。
だから、ぼくのようなすごくないくせにネットで目立つ人間は、そういう人間からすると「発言権がないくせに発言していてウザい」ということになるんだろう。
基本的には相手はこちらを無視しているし、こちらとしても関わりたくないし、ほとんど触れる機会はないのだが、ぼくが能力天賦説的なことを書くと、マッチョにとってはそれが不快なので、「努力、努力が足りない」的なことを書いてきたりする。(といっても、それがあったのはこの前の一回しかないが)
このタイプは数が多い。
2. ストイック
不言実行的タイプ。
そういう美的感覚を持っているんだろう。
能力が高く、地道に世の中のためになるようなコンテンツを生産している。
マッチョタイプほど自信に満ちあふれていないので、そんなに存在感は強くないが、すごい人の間では認知されている。
やはりぼくと接点はないのだが、自分の地道な努力に対する認められ方に多少不満がある様子で、ぼくが軽薄な記事でブクマを稼ぐと軽いあてこすりのようなことをつぶやいていたりする。
ぼくからすると、その美的感覚は好きにしたらいいし世の中に貢献するのはすばらしいと思うけれど、自分のやっていることに不満が出ない程度で頑張ればいいんじゃないのかなぁと思ってしまう。
ぼくが書いた人の役に立つような記事はごくわずかだけど、書きたいと思ったことを書きたいと思ったときに書いているだけなので、ブクマが少なかろうと、自分の記事よりさらに軽薄な記事が注目を集めようと、特に何も思わない。
何かを書くときは、書く目的の中で「書きたいことを書く」「世の中に貢献する」「承認欲求を満たす」「ネット上で存在をアピールして人脈を築く」等の占める割合がどれだけかを自分で吟味して、たとえば純粋に世の中に貢献することが目的なら承認欲求はある程度あきらめるなどしたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。
ぼくのほうからは特に敵意はない。
「〜タイプ」と書いたけど、ぼくの観測範囲で該当するのは実は一人だ。
(その人が読めばわかるかもしれない)
3. ミサワ
高い能力を持っているが、マッチョタイプほどつるむわけでもなく、ストイックタイプのように抑圧的でもない。
マッチョタイプのように「自分がすごいのは自分の努力の成果だと信じて疑わない」ということはない。
自分にその嘘がつけないほど能力が明らかに高いんだろう。
自分がすごいことをやっていることを十分自覚していて、たまにツイートしたりするとその「すごいことをやっている」アピールがすごい。
リアルで接すると強者の余裕のようなものがあり、こちらも相手にかなわないのはわかっているので、ミサワ分を受け流せば特に交流に問題はない。
ぼくのほうからは特に敵意はないけれど、いつもすごいミサワっぽいなぁと思って見ている。
これも、実は該当者は一人だ。
4. サル
ここまではプログラマ界隈だったが、これはアカデミックのほう。
受験時代の後からずっと大学の世界で生きているので、偏差値的な考えをそのまま温存していて、頭がいい=優れていると思っている(そして、自分は頭がいいので優れていると考えている)。
上に対して媚びるのが得意で、下に対して傲慢。世渡り上手。
倫理とかそういう概念は必要であったことがないので、「若く可愛い女の子にだけ優しくする」という唾棄すべきような行動を平気で取る。
サル分を含む人間はそれなりにいるが、完璧な該当者は一人だ。
研究室時代は同期との間では、その完璧なサルを「ゴキブリ」と呼んでいた。
唾棄すべきような思考回路や行動パターン(男尊女卑など)を持っているが、人間は多少なりともそういうところがあるので、「サル」と同等あるいはそれより上の、直接被害を受けない人間からは特に悪印象を持たれていない。
ところで、この前 S さんと会ったとき、ある人たち(A さんと B さんとする)について、ぼくと合わない可能性を指摘されたが、冷静に考えてみるとどちらもそんなに合わないタイプではない。
A さんのほうは、次のタイプだ。
5. ナチュラル
全般的に能力が高く、アカデミックな分野で高い成果を上げている。
ソーシャルメディアで騒ぐタイプではなく(≠マッチョ)、十分に認められているので不満もなく(≠ストイック)、自分の能力をひけらかしたりもしない(≠ミサワ)。
人生が充実しているので、他人との軋轢も少ない。
数は少ないが、それなりに存在する。
ぼくはもちろんレベルが低いので、こういう人とはあまり接触する機会自体が少ないのだが、ぼくから見ると尊敬できるタイプなので、合わないこともないと思っている。
そういえば、Google の K さんは天然の入ったナチュラルタイプ(重言?)だけど、仕事をするうえでは特に問題なかったと思う。
B さんのほうは、次のタイプ。
6. 低自己評価
能力はすごいのに、常に他者と自分を比べて「自分なんかダメだ」と思っている。
自尊心が低いため、自分を認めてもらうために「業績」という鎧を身につけようと必死になっている。
心が傷つきやすく、心の傷に触れる部分に関しては極端な意見を持っていて人に引かれたりする。
ぼくからすると、このタイプ(といっても想定一人だけど)の人には特に反感はない。
反感を持つには相手の心が弱すぎるし、ぼくにも似たようなところがあるからだ。
ぼくも心がとても弱いところがあって、昔は人に認められることを渇望していた時期もあった。
その後、自分の心のケアなどをして、そういう気持ちは多少少なくなって、ある程度自由に生きることができるようになっているけれど、そういう気持ちは痛いほどわかる。
こういうタイプの人にとって、「業績」は自分の心を守る鎧のようなものなので、業績のない他人に対しては実はそこまで軽蔑したりしていない(小心者なので)。
人間、業績だの技術力だの職位だのいろいろあるけれど、結局は「心の強さ」が大事だ。
業績・技術力・職位などがあれば、そういうものによってナチュラルに自分が偉いと思える人間ならそれらを持つことによって精神的に強くなれるが、基本となる自己評価が低いとそれらがあっても相手にあまり強く出られない。
ぼくとしては、こちらのほうが精神的に強ければ、「合わない」ということはないと思っている。
相手のほうが強い(職位をかさに着ることができる性格の人間が職位が上の立場にある)場合は、相手が関係性をコントロールすることになるが、そうでなければこちらにもコントロールが利く。
こちらにコントロールできる部分があるなら、それを注意深くすればいい。
それに、そういうサバンナ的な弱肉強食な考え方以外にも、「生きづらさ」を抱えている人間であれば、そんなに合わないことはないんじゃないかなぁと思っている。
つらそうなやつはだいたい友達。
いろいろ書いたけど、誰かを傷つけるつもりはない(傷つきそうにないタイプしか悪く書いていないと思っている)。
まあ、個人の日記だし。