04/16

(23:01) 今日は予定通りすずかけ台の奥村・高村研におじゃましてきた。

 

M さんが駅まで迎えに来てくれていた。

何となく中世の少年騎士っぽい感じ(説明しにくい)の服装だったような気がする。

剣を帯びたら似合いそうな。

(中世に対するイメージが間違っている可能性あり)

 

もちろんダンゴムシでなかったことによるイメージの違いはあるものの(ツイッターで実写アイコンでない人の実際の姿を見るとだいたいイメージが違う)、それほどの違和感はなかった。

でも、かなり緊張している様子だったので、それが少し意外だった。

M さんはゆるい感じのイメージがあったので。

ツイッターでゆるそうな感じにしている人は緊張感が高くて、それを緩和しようという気持ちでそうしているという仮説)(特に根拠はない)

初対面だから緊張しているのかなと思ったら、S さんに対しても同じような感じだったので、少し安心した。

 

M さんは、一挙手一投足、また話す一言一言について、とても真面目に考えている人という印象を持った。

どう行動することが適切か、どうしゃべることが正しく、その場の状況にふさわしく、また相手を傷つけないか。

ぼくは、そういう真面目さはいいと思った。

 

その「正しさ」の追求は、たとえば次のような会話に表れていた。

ぼくが(服装から連想して)(その場ではそうは言わなかったけど)ひょっとして進撃の巨人が好きだったりしないかと聞くと、M さんは「いえ、私は手や足がもげるようなシーンは苦手なので…」と言った後、「いえ、手や足に限らないですね、胴体がもげるのも苦手です。不正確なことを言いました」と自分の発言を訂正した。

(発言は実際のものに忠実とは限らない)

 

これは、ぼくにとってはすごく印象深かった。

というのは、ぼくもツイッターでは、また親しい友達と話しているときには、そういう訂正をするからだ。

とっさに「手や足がもげるのが苦手」と言うというのはありそうなことだけど、その後自分が苦手なのは手や足に限らず、胴体や首でももげるのは苦手だということに気がついたら、「手や足」と言ったのは不正確なので、訂正したくなるところだ。

 

しかし、ぼくの場合はそこに複数の層が重なる。

 

一般的に、「手や足がもげるのが苦手」という情報で、人間は「胴体や頭がもげるのは大丈夫なのか」とは思わない。

そこから敷衍して、「体の部位がちぎられるようなシーン全般が苦手」だと解釈する。

人間の思考回路(ぼくはそれをエミュレートしている)は、そういうふうにできている。

 

そこであえて訂正をすると、そこには一種の面白さが生まれる。

あまりにも自明なことを、わざわざ補足する形になるからだ。

だから、ぼくは人間と話すとき、そういう補足はしない。

 

でも、ツイッターや親しい友達と話すときは、それをわかったうえであえてそういう訂正をしたりする。

半分は自分を解放するため、半分はネタとして。

 

たぶん、M さんはそういう層はあまり形成していないんじゃないだろうか。

 

M さんがそういう(論理的な正しさを追求した)返事をすると、人間には面白く映って、それが笑いを誘ったりもする。

今日、研究室でもそういう場面はあった。

(M さんが気づいているかどうかはわからなかった)

 

そういうとき、ぼくは思わずつられて笑ってしまったりもする(人間の思考回路をエミュレートしているので)が、すぐに反省する。

M さんは真面目に生きているだけじゃないか、と。

 

ちょっとシーンが変わって。

M さんに、これまで留年などをしたことはあるかと聞いたら、ないという返事だった。

そのとき、思わず「つらみ勢にしては珍しい」と言ってしまった。

 

でも、考えてみると M さんはツイッターでそんなにつらみ発言をしているわけではなかったことに気がついた。

ただ、ほかのつらみ勢(つらみを表明している正例)とふぁぼ行動が似ているので、勝手につらみ勢にクラスタリングしていただけだった。

 

M さんは、潜在的には生きづらくなる可能性があるように思える。

というのは、上で書いたような生真面目さは見る人の心に「面白さ」を感じさせるのだが、それはほんのちょっとしたきっかけで「揶揄」などにつながってしまうように思えるからだ。

今の環境ではいい人に恵まれていて(少なくとも、S さんは善悪の概念のある人だし、高村先生もとてもいい人のように感じた)、温かい目で見てもらえているのだと思う。

でも、たとえばぼくのいたころの黒橋研のような、人格的に下劣で(これはぼくの主観だが)善悪よりもその場のノリによって行動するような人間がいる場所では、不幸になってしまうような気がした。

(一日会っただけの人に対して、ここまで詳しく考えるのはおかしいかもしれないが、つい深く考えてしまった)(ぼくはいつも考えすぎだ)

 

分析を離れて、日常会話のレベルに話を戻すと。

M さんは、初詣のときの家族写真(ぼくと妻と子供)を見て、ほほえましいと言ってくれた。

子供が帰ってきたら、機会があったら一度妻と一緒に M さんに紹介できたらいいなぁと思うなど。

(この日記によって深刻に M さんを傷つけていない場合)(何かを書くことの影響は常に未確定だ)(でも、ぼくは思ったことを書くという方針でやっている)(それは本当に他人と自分にとって最善の方針なのか)(わからない)(これは一種のヒューリスティックだ)(それによって悪い結果になることもあるけれど、おかげでだいぶ楽になっている)(また家族八景風)(このぐらいにしよう)(家族八景風の締め方)(便利だから今後も使うかも)(これまでにも使ってるかも)