03/19

(0:23) 昨日はあのあと結局日記を韓国語に翻訳して(多少アレンジして)書いた。

일기 03/18

lang-8 はたまに使うけれど、諸事情によりツイッターでは言及しにくい。

 

今日ツイッターで、ほしいものリストを公開したら何かくれると言ってくださる方がいた。

(別に id を書いても差し支えないはずだけど、とりあえず書かないでおく)

ありがたいことだ。

でも、ぼくはほしいものリストを本と漫画専用に使っていて(本と漫画以外にほしいものがあったことがあったっけ)(もちろんiPadとかの高いものは別だ)(そういえばイヤホンが壊れると新しいのが必要になる)(今日イヤホンが壊れた)(しかし送料節約のために前に二個買っておいたので、残りのひとつを使うことに)(また七瀬風)、特に本は「今なら読む気になる」というタイミングで買うので、あまり公開するのにはなじまない。

 

ツイッターでも書いたけれど、ぼくはどうもプレゼントとか贈り物という概念がよくわからない。

概念というか、理論というか(cf. り りろんはしってる)。

 

ここはぼくの自閉症的なところだと思うけれど、どうも「物」を介することによって金銭授受の直接性が薄らぐということがぼくにとってはないのだ。

 

人間は、たとえば現金と商品券でも、それらをまったく違うものであるかのように扱う。

現金を渡すことが不適切な場面で、商品券なら渡してもいいとか。

しかし、ぼくにとってはたとえば 1万円の商品券は 9500円の現金と同じことだ。

要するに、金券ショップに行って現金にできるだけの価値だ。

(商品券を商品券として使えば1万円分使えるが、用途が限られる分だけめんどくささなどによって価値が減るので、結局は同じことだ)

 

それが物なら、人間にとっての「違うもの」度はますます上がる。

 

しかし、ぼくにとってはその「物と金の非同一視」ができない。

自分があげないでも相手が自分で買うであろうものをあげるというのは、現金をあげるのと同じことに思える。

たとえば、誰かが1000円の本を買おうとしてレジに持っていったときにそのお金を自分が払うのと、その誰かに直接1000円を渡すのは、まったく同じことだ。

 

そういう感覚なので、自分が受け取る場合でも、ほしいものリストにあるものを買ってもらうのは現金を直接受け取るのと同じように感じられる。

それが不都合というわけではないが、現金を受け取ることはよくないという(人間界の)ルールと、物を受け取ることはいいというルールの不整合が気になって安心できない。

もちろん、物を受け取る限りにおいては人間のルールには反しないのだが、いつ誰が「それはお金をもらうのと同じじゃないか」と(正しいことを)言わないとも限らない。

まあ、こう考えるのがおかしいのはわかっているのだが、ぼくにはこの考え方しかできない。

 

ところで、ぼくは妻にも贈り物をしないが、考えてみるとこれは少し違う理屈だ。

妻とは現金のやりとりをしても特に問題がないから、物のやりとりをしても同様に問題はない。

しかし、ここでぼくが考えるのは、「妻がほしいものは妻が自分で買うのが最適だ」ということだ。

ぼくが妻の代わりに何かを買うと、それは最善でも妻が買うのと同じ、そうでなければより不適切な買い物になる。

無駄を避けるためには、お金を渡すのが一番だ。

しかし、たとえば誕生日というのはぼくにもあるので、お互いにお金を行ったり来たりさせることになってしまう。

最適なのは、何のやりとりもしないということだ。

 

まあ、子供にはプレゼントを買うと思う。

というのは、子供が相手の場合は条件が整っているからだ。

相手からこちらにくれるわけではないので往復による無駄がなく、また相手は(思考力の限界から)自分にとって最善のものを常に購入できるとは限らない。

 

でも、うちの子が1歳のときにはまだ香港だ。

誕生日プレゼントは渡せないな。